交流小史

京都大学とASEAN地域との交流小史

東南アジア諸国と京都大学との交流は、古くは、戦前の日本による「南方」開発にまでさかのぼることができる。京都大学の多くの部局が南方資源開発を掛け声に、当時、タイを除いて欧米列強の植民地下にあった東南アジア地域、とりわけ蘭領東インド、仏領インドシナ、フィリピンやミクロネシアに多くの研究者を 送り出した。さまざまな分野の学術調査が実施されるとともに、卒業生たちが地域経済開発の一翼を担う先兵として各地に派遣された。

戦後、東南アジア各国が次々と独立した。これら諸国の戦後復興に向けて、経済復興を遂げた日本が再び東南アジア諸国との交流を活発にはじめることになった。日本がコロンボ計画に加盟した1954年以降は、戦後賠償による東南アジア諸国からの留学生の受け入れにはじまり、海外技術協力事業を通じた専門家派遣など、東南アジア諸国との交流事業に多くの大学が参画していった。京都大学もその例外ではない。1960年代初頭から医学分野で始まった長期にわたるビルマでの医療技術支援は、京都大学の初期の海外技術協力案件として特筆される。

こうした交流の再開にともなって、戦前からこの地域の学術調査にかかわっていた研究者が中心となって、東南アジアでの学術調査を再開しようとする機運が高まっていった。いち早くこうした活動に取り組んだのが、日本民族学協会による東南アジア稲作民族文化綜合調査(1957-58)で、この調査には京都大学出身の民族学、地理学、農学などの分野の研究者が参加した。

東南アジアでの学術調査を全学的な取組みとして行う計画が京都大学で進んでいったのもこの時代である。1959年、法学部、文学部、農学部、医学部、経済学部、人文科学研究所などの研究者を中心に東南アジア研究会が組織された。その後、大学執行部と部局の協力のもとに準備が進み、1963年には、東南アジアおよびその周辺地域を総合的に研究することを目的に東南アジア研究センター(現研究所)が学内措置として設置され、1965年には全国初の研究センターとして官制化された。日本だけでなく世界の研究者が注目する東南アジア研究拠点として現在に至っている。

この設置を契機に、フィールドワークを基礎にした活発な調査研究活動が東南アジア各国で展開することになった。東南アジア研究センターが1964年に設置したバンコク連絡事務所、そして1970年に設置したジャカルタ連絡事務所は、京都大学研究者のための現地調査の基地として、あるいはタイ、インドネシアやその他の東南アジア諸国の研究者・学生との交流拠点として活用されるようになっていった。当時は、日本の学術機関が有する東南アジアにおける唯一の拠点として、調査許可の取得、現地大学との連絡調整、現地語資料の収集、あるいは調査活動の準備にその拠点機能が活用され、他大学の研究者にも盛んに利用された。

ちょうどこの時代、日本は戦後復興から高度経済成長期へ移行するまっただ中にあった。また、東西冷戦下、西側諸国が社会主義陣営と対峙する国際政治環境のもと、東南アジア各国に対して多額の資金を供与して経済発展を促そうとする時代でもあった。日本企業の進出も活発になった。1970年代には、経済成長の果実として科学研究費補助金等の研究資金が大幅に増額され、科研費補助金を利用した海外学術調査が盛んに行われるようになった。理学部や農学部は、この時期以前から動物学、植物生態学、土壌学、森林生態学、農学等の諸分野でタイやインドネシア、マレーシアを舞台にフィールドワークによる研究活動を行っていたが、科研費による海外調査が以前にまして獲得できるようになり、多くの研究者が東南アジアへ出かけるようになった。農学部のカセサート大学、コンケン大学、チュラロンコン大学などタイ諸大学とのその後の交流はこうした共同研究を契機にはじまったものである。また、理学部や霊長類研究所なども、インドネシアのアンダラス大学等との共同研究を通じて現地に継続的な調査拠点をおいて積極的な調査活動を展開していった。

国連アジア太平洋経済社会委員会(ESCAP)あるいは国際稲研究所(IRRI)などの国際機関に派遣された研究者、あるいは国際協力事業団(現国際交流機構)の技術協力に専門家として派遣された研究者が、東南アジア地域の学術研究や技術協力にも貢献している。タイ、インドネシア、マレーシア、シンガポール、フィリピンの5か国が東南アジア諸国連合(ASEAN)を結成したのが1964年であったが、これら諸国は、その後の経済援助によって、急速に経済発展を遂げていくことになった。この時期以降、当時のASEAN諸国のうち、タイ、インドネシア、マレーシア、フィリピンから多数の留学生が国費留学生として日本で学ぶようになり、1980年代を通じて留学生数が急速に増大した。京都大学でも1970年代以降、多くの留学生を受け入れている。彼らは、帰国後、京都大学が実施するさまざまな海外調査活動や交流活動のカウンターパートとして協力してくれることになった。現在に続く、東南アジア諸国と京都大学とのさまざまな交流の基盤は、この時代に受け入れた元留学生たちの協力のもとに築かれたと言っても過言ではない。

1980年代末には、ソ連の崩壊、中国など社会主義諸国の市場経済への移行など、かつての東西冷戦構造が大きく転換した。東南アジアにもその影響が及び、1990年代になると、ベトナム、ラオス、カンボジアという社会主義経済圏の国々が門戸を開くこととなった。京都大学は、こうした東南アジアの変化をいち早くつかんで、東南アジア研究センターや新たに設置された農学研究科熱帯農学専攻(1981年)、人間・環境学研究科東南アジア地域研究講座(1993年)、アジア・アフリカ地域研究研究科(1998年)などの教員・大学院生がこれら地域での先駆的な調査を開始している。この時期の留学生の推移をみると、1990年までは上記の4か国からの留学生が中心であったが、1980年代末からベトナム、1990年代半ばからはカンボジア、そして2000年代に入ってラオスというように、インドシナ3国と呼ばれる国々からの留学生も徐々に増えていくようになった。その趨勢は、新たに開放政策をとったミャンマーからの留学生の受け入れ増大という変化を加えつつ、現在にまで続いている。

急速な経済発展の一方で、1980年代から1990年代にかけての時代は、開発の負の側面にも注意が向けられるようになった時代である。東南アジアで急速に進んだ森林破壊や、「緑の革命」がもたらした農村社会の格差増大、都市と農村の格差、あるいはバンコクやジャカルタなどの都市環境の悪化など、グローバルな地球環境問題とともに地域の環境、社会、文化の変容を的確にとらえていくことが大きな課題となってきた。京都大学でも、東南アジア地域を対象にこうした課題に取り組もうとするさまざまな研究プロジェクトが既存の研究科や研究所・センター、そして新たに設置された大学院地球環境学堂(2002年設置)などによって組織されている。

ちょうどこの時期は、日本の学術・科学技術政策の改革、とりわけ大学の教育研究体制の改革に向けた議論がはじまる時期でもあった。従来の科学研究費による基礎研究への支援だけでなく、研究面での牽引車的役割が期待される研究大学に重点的に教育研究資源を配分する政策がはじまるようになった。また、教育研究の両面にわたって同時代の諸課題に取り組む複合分野への支援も強化されるようになった。

重点領域プログラム、COEプログラム、21世紀COEプログラム、グローバルCOEプログラム、拠点大学交流事業など大型の研究・教育プログラムが次々と立ちあがり、京都大学でもこうした大型プログラムのもとで多くの研究・教育プロジェクトが運営されるようになった。エネルギー科学研究科やエネルギー理工学研究所が組織したSustainable Energy and Environment Forum (SEE Forum)、生存圏研究所が実施したインドネシアでのサマースクール、あるいはその前身である宙空電波科学研究センターの赤道大気レーダー観測所を基地にした国際共同研究、理学研究科や防災研究所が組織した地球惑星科学分野のKAGI21 International Summer/Spring School、生態学研究センターのランビル観測ステーションの設置などは、いずれもこうした科学技術政策の転換の中で実現したプロジェクトである。このようなプロジェクトを通じて、21世紀に入って、東南アジア諸国の大学や研究組織との共同研究の実施、留学生の受け入れ、相互訪問による学生交流の推進が飛躍的に増大した。

グローバルCOEプログラム、大学の世界展開力強化事業、博士課程教育リーディングプログラムなども、京都大学と東南アジア地域との交流を強化するうえで大きな役割を果たしている。複数の部局が協力して新しい大学院教育を目指すこれらのプログラムによって数多くの大学院生や若手研究者の派遣・交流、分野横断的な共同研究が行われるようになった。なかには、プロジェクト運営のために現地に研究拠点をおく部局も現れるようになった。カウンターパート大学の中に研究基地を設けた拠点、調査地付近に独自のオフィスを開設した拠点、あるいはバンコク市内に独立した事務所を構えた拠点など、その形態はさまざまであったが、それらは後掲のリストにあるように、現在も各部局プロジェクトの活動拠点として活用されている。

この時期は、大学改革の一環として大学の国際化が強く要請される時代でもあった。上記のようなさまざまなプロジェクトを基礎に、部局間、大学間の多くの協力協定が結ばれている。現在、ASEAN諸国の大学との大学間交流協定は14件で、なかにはカセサート大学のように古くからの交流協定がある一方で、21世紀に入って結ばれた新しい交流協定も少なくない。また、数多くの部局間交流協定が締結され、その多くは上記のような大型プロジェクトの実施が契機となって結ばれたものである。

ASEANは1997年にミャンマーとラオス、1999年にカンボジアを新たな加盟国として加え、現在、10か国が加盟して各国間の連携強化と地域共同体の形成を進めている。なかでも、ミャンマーに対しては西側の経済制裁下にあっても日本が技術支援を続けていたが、京都大学では大学院農学研究科、アジア・アフリカ地域研究研究科、東南アジア研究所などが林業・農業分野の共同研究を続け、留学生を受け入れてきた。開放政策に転換した後は、東南アジアに残された最後の開発前線として、各国が競って経済開発支援を展開している。とくに軍事政権下で劣悪な環境下にあったミャンマーの高等教育への支援は日本政府の重要な取組みと位置づけられており、京都大学に対しては工学分野および農学分野の高等教育支援に対する協力が期待されている。工学研究科は、こうした要請にいち早くこたえるために研究科内に工学分野の協力ユニットを設置して、ヤンゴン工科大学、マンダレー工科大学に対する協力活動をすでに積極的に展開している。

京都大学では、以上に概観したように、それぞれの時代の特徴を反映しながら、たくさんの教育・研究プロジェクトやプログラムが東南アジア諸大学の学生や研究者を対象に推進されてきた。いまやその対象地域は、ASEAN加盟10か国のすべてに及んでいる。戦後の経済復興を契機に細々とはじまった京都大学の活動も、いまでは教育と研究の両面にわたって量的にも質的にも大きく発展したことになる。

今回、バンコクに京都大学のASEAN拠点を開設することになったのは、このような長年にわたる京都大学の東南アジアでの活動があったことが背景となっている。また、2013年に制定された京都大学の国際戦略“2x by 2020”にも謳われているように、京都大学は今後10年、20年の先を見つめつつ世界に開かれた国際化に取り組もうとしており、ASEAN拠点の開設はその一環をなすものでもある。以上に概観した京都大学の長い東南アジア諸国との教育研究交流を一層強化すること、また、量的にも質的にも拡大している各部局の交流活動を大学全体として支援するハブ基地としての役割を果たすことがその目的として想定されている。東南アジア研究所のバンコク連絡事務所やジャカルタ連絡事務所、あるいはベトナム国家大学に設置されているハノイ共同事務所などと連携し、東南アジア各国の諸大学、研究機関との交流を一層強力に進めることがその役割として期待されている。

 

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